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漱石山房記念館にて夫婦別姓訴訟を想う

中川 武隆

 西高東低の気圧配置が強まった晴れた日、漱石山房記念館を訪問。去る9月24日開館したのである。今年は、漱石生誕150年、没後101年となる。

 地下鉄早稲田駅から地上に出ると、夏目坂である。町方名主であった漱石の父が名付けた。ちなみに、喜久井町という名も、夏目家の紋が井桁に菊であったことによる。坂の麓の角は、小倉屋という酒屋で、堀部(当時は中山姓)安兵衛が、高田の馬場に駆けつける前に、一気飲みした枡が家宝とのこと。隣のやよい軒の店先に、「夏目漱石誕生の地」の石碑が建つ。弟子の安倍能成の揮毫による。しかし、今日は、この坂を登らずに、早稲田通りを弁天町の方に進み、右手の細い道に入り、歴史的建造物と見える早稲田小学校を過ぎると、目的地である。漱石が40歳から亡くなる49歳まで住んだ。戦後、東京都が買収し、都営住宅が建っていたが、今回、その移設に伴い、記念館ができた。以前は、ひっそりと猫の額ほどの漱石公園があっただけ。誠に喜ばしい新宿区の英断である。復元された書斎、ベランダ方式の回廊、芭蕉の植栽など、往時が偲ばれる。意外だったのは、書斎が洋式であったこと、回廊が洋式であるから、当然ではあるが。窓も洋式である。木の床材にペルシャ絨毯を敷き、座布団2枚を重ね、文机を置いて、執筆していたのだ。有名な「書斎における漱石」の写真では、火鉢にやかんが掛かっており、文机に両肘を突いている。寒くないかと心配したが、ガスストーブも使っていたようである。

 さて、記念館には、カフェがあり、空也の最中を食することができるが、今日は、我慢して、図書室に回り、石原千秋「漱石と日本の近代(上)(下)」新潮選書(2017年5月)を探す。これは、前に「波」に連載していたもので、その切り口に新鮮な驚きを受けていた。漱石の小説を、明治31年に施行された明治民法の視点で見ていることである。旧民法が定めた家制度、戸主の権利・義務、隠居、長男単独相続制度などから、切り分けている。「それから」「こころ」「明暗」など、それぞれを、そのような観点から分析している点が、興味深い。例えば、「それから」については、すべて明治民法の規定に沿って考えられており、いろんな意味において明治民法小説だと言っていいとまで、言い切っている(同書(上)222頁)。大議論の末、制定された明治民法の家制度。国民の側にとっても、一大事であったことが改めて想起される。

 ところで、現代に生きる我々には、古い家制度など無縁とも思われるが、まだまだその名残は、無意識的に存在しているようである。戦後、家制度が廃止されたとき、夫婦の姓をどうするかも一応議論されたが、結局、民法750条の規定となった。文言上は、「夫又は妻の氏を称する」となっており、形式的には男女平等に反しない規定とされたが、実際は、96%以上の夫婦は、夫の姓を名乗っているとの統計がある。むしろ、明治民法が制定される前は、夫婦別姓が原則であったようである。地球規模で見ても、今や、夫婦同一姓を強制する制度を保持しているのは、日本くらいのものである。個人が個人として生きやすい制度を作ることを望みたい。

 家制度を定めた明治民法の土俵で、自立を求めて格闘した男女を小説の題材に選んだ漱石。ところで、漱石自身の結婚、家族はどのようなものであったのか。鏡子夫人は、一部に悪妻の評があったが、実は、二人の間には2男5女が生まれている(末の雛子さんは、1歳8ヶ月くらいで亡くなっているが)。本当は、惚れていて、尻に敷かれていたのではないだろうか。後記ガイドブックに載っている夫婦、子どもの写真を見ると、そのように思えます。最晩年に、学習院で、「私の個人主義」と題して講演した漱石。今、生きていれば、個人を抑圧する場合のある夫婦同一姓強制には、反対するだろう。などと想像しつつ、帰途に着いた。

 付け加えて。夫婦別姓違憲訴訟は、大法廷の合憲判決で一応の幕が下りた。しかし、法廷意見の説得力が疑問視され、かつ、有力な反対意見が存在したところ、最近、第2次の夫婦別姓訴訟が提起されたとのことである。制度ありきではなく、人間尊重の立場に立った判決を望みたい。

 (以上の記述は、記念館作成のガイドブック記載の資料により確認したところが、いくつかありますので、ここに記して感謝申し上げます。)

本コラム中の意見や推測にわたる部分は、執筆者の個人的見解であり、ひかり総合法律事務所を代表しての見解ではありません。
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